平成を迎えて
第33回の昭和64年。昭和天皇が崩御して元号が「平成」に変わる。
多くの行事が中止になるなか、高円寺阿波おどりは崩御から半年以上経過しているということもあり、例年通り開催される。
すでに商店街の活性化という当初の目的を大きく飛び越えていたが、この頃から行政を通じての友好使節や福祉活動という側面も持ち合わせてきた。
杉並区の友好都市である、北海道風連町、群馬県吾妻町への参加が始まったのが平成3年である。
以降、毎年高円寺合同連として出演しており、平成12年に10周年を迎えた。
平成3年、この年の8月23日から第3回陸上競技選手権大会(通称 世界陸上)が東京で開催された。
カール・ルイスが男子100メートルで世界新記録をマークしたり、男子マラソンで谷口選手が優勝したりと大いに盛り上がった大会の閉会式に、高円寺から踊り手300名が出演したのである。
阿波踊りは厳粛に始められた閉会式の雰囲気を一転させた。軽快なリズムが会場に響くと、 一度は退場しかけた選手もトラックに舞い戻り、カール・ルイスやレロイ・バレルも高円寺の踊り手たちと共に舞い踊ったのである。
まさに、阿波踊りは言葉を越え、国境を越えて心をひとつにした瞬間だったのである。
平成6年、東京都とオーストラリアのニューサウスウェールズ州の友好都市提携10周年、および杉並区とウィロビー市の友好都市提携4周年を記念して、東京阿波おどり振興協会より88名がオーストラリアで踊りを披露した。
平成7年、阪神・淡路大震災のニュースが日本列島を震撼させた。
日本各地あるいは世界各国から多くのボランティアが現地へ集まるなか、高円寺でも出来ることをしようと関係者が集まった。2月の寒空のなか高円寺駅前で連協会19連・200人の踊り手が季節外れのチャリティー阿波おどりを行い、 この日寄せられた義援金110万円余りを杉並区役所を通じて兵庫県東京事務所に贈呈した。
平成8年、40周年を迎え、記念誌「めくるめく発展の40年 おどれ高円寺」が発刊された。
21世紀を迎え
平成のバブル崩壊後も、阿波おどりはその影響を受けることもなく、ますます盛大になっている。
連協会も昭和56年発足当時の15連から、現在は29連を数え、今後もその数を増やしていくであろう。
昭和32年当時、参加者38名・観客2千人からスタートした阿波おどりも、平成25年には、参加連のべ156連・11000人の踊り手と約100万人の観客を動員している。
2001年、新たな世紀を迎えた最初の年。本番2日目に思わぬ大雨で大会が中止となった。この年、明石の花火大会で将棋倒しによる死者が出たことを教訓に見物客の安全を図るために中止としたのである。高円寺に来てくださる観客と踊り手の安全への配慮が最大の理由だった。
そしてこの事柄は、東京高円寺阿波おどりを運営して行く上で、安全性を確保することの重要性を再認識させたのだった。
高円寺阿波おどり 新しいステージへ
平成17年には、東京高円寺阿波おどりを主催する東京高円寺阿波おどり振興協会の組織を、これまでの任意団体から、責任を明確化し、地元・踊り手・観客の三位一体で支えあうことを目指してNPO法人化した。
翌平成18年は、高円寺阿波おどり50周年の節目の年に当たり、50周年記念誌「踊れ高円寺‐人が創り、街が育む50年」を刊行した。商店街のテナント化が進行し、地元商店街の役員、スタッフの減少が顕著になり、観客や踊り手の増加に地元だけでは対応しきれずにいたところ、徳島県出身の大学生達と上智大学のインド支援サークルなどが連携し、阿波踊りを支えるボランティアチームを結成して高円寺阿波おどりを強力にサポートし始めたのもこの年。今では両日で400名近い世代を超えたボランティアがこの行事を支えてくれている。そして平成21年には、阿波おどりホールを備える杉並芸術会館「座・高円寺」が完成。高円寺阿波おどり新時代に。
平成23年3月11日に発生した東日本大震災の救援・復興を支援する義援金活動を展開し、その年の55回大会は「頑張ろう日本!! 東日本大震災復興支援」をタイトルにし午後3時から午後6時の日中開催とした。熱中症も懸念されたが天候は穏やかな曇り空、大会終了後の地元商店街は、飲食店は阿波おどりを見終わったお客様で大盛況。
平成24年は「笑顔に出会いたい」をタイトルに、高円寺から笑顔の輪を発信することを目標に午後5時から午後8時に開催した。この年から地元の杉並第八小学校の6年生の皆さんがボランティアとして係わってくれるようになった。高円寺阿波おどりを支えるスタッフも年々充実しつつある。
平成25年の第57回は「この街に咲く」をタイトルに、この行事に集まってくる踊り手・観客・ボランティアの皆さんが、地元の方たちと共に高円寺の街で笑顔の花を咲かせることを目標に開催した。
今後ますますの発展と、そしてなによりも100年、200年と継続されることを願っていきたい。