独立連の登場と演舞場の拡大
さらなる技術の向上を目指したメンバーの1人森田昇栄氏(元葵新連連長)が、真の阿波踊りを求めて単身徳島に向かった。 森田氏は徳島の様子を8ミリで撮影を行い、帰京してすぐに映写会を開いた。
本場の阿波踊りを見て少なからずショックを受けた有志が、昭和40年に12人が「阿波踊り留学」と称して徳島に旅立ったのだ。
第9回を迎えた高円寺阿波おどりも参加者800名、観客28万人となる一大イベントとなり、マスコミにも取り上げられ始めたのである。
この年の8月、TBSでの出演で徳島阿波踊りのトップスター小野正巳氏と共演した森田氏は「来年、自分の連を作る」という小野氏の話を聞き、「私も東京中の踊り好きを集めて連を作る」と答えたという。
そして翌昭和41年に高円寺初の独立連「葵新連」が結成されたのである。
同時期に「天狗連」も発足。昭和47年頃までに、独立連が次々と誕生し、現在の高円寺阿波おどり連協会の多くの連が出揃うことになる。
当初、現高円寺パル商店街だけで行われていたが、昭和40年に現ルック商店街も参加して、高円寺駅から青梅街道まで演舞場が拡大した。
昭和42年には中央線が高架化して、北口にも演舞場が拡大。
昭和44年、現中央演舞場にあたる18メートル道路(高南通り)が完成。
ここも演舞場となり、阿波踊りはますます盛大となっていくのである。
各地で阿波踊りが登場
昭和43年頃より、明治100年を期に警視庁の許可方針が緩和され、都内の各商店街でも盛んに阿波踊りが取り入れられるようになった。
現在では30カ所とも40カ所とも言われている。
各地の阿波踊り大会に高円寺のメンバーを招いていただき、 踊る機会が格段に増えてきたことも、独立連の誕生を促した要因のひとつである。
昭和46年には、サンケイ新聞社が後援につき、本格的なポスターを作成。
連長会の発足
昭和48年、オイルショック。ものの不足により、運営費が大幅にアップした。
昭和49年、各地の阿波踊りの応援やテレビ出演と多忙を極める。
昭和50年、現・高円寺阿波おどり連協会の前身である、「連長会」が発足。15連からのスタートだった。
昭和51年、アメリカ建国200年祭の催しとしてサンフランシスコ、ロサンゼルス、ホノルルの3つの都市から招待を受け、初の海外遠征を成功させた。
昭和52年、高円寺の阿波おどりに関する業務を一元化するために、「東京阿波おどり振興協会」が発足。
昭和53年、商工会議所100年記念 全国郷土祭にて、天皇陛下ご臨席のもと、高円寺からも600人が参加して、本場徳島の150人の踊り手と共演。
このことが契機となって、徳島の連と高円寺の連の交流が進んだ。
昭和54年、当時の鈴木東京都知事がテープカットに駆けつける。以降、都知事のテープカットが恒例となる。
昭和56年、「連長会」を発展解消し、「高円寺阿波おどり連協会」が発足した。
現場サイドから「東京阿波おどり振興協会」を支え、高円寺阿波おどりの発展に尽力する態勢が整った。
そしてこの年、連協会主催の記念行事としてバス2台・80名の踊り手が、本場徳島の阿波踊りに参加した。
昭和58年、木場連から発展した「天恵連」が来演。同年に75歳で他界された高円寺の恩人「鴨川氏」の追悼をかねての20年ぶりの出演であった。
昭和61年、30周年記念誌「どよめきの30年 おどれ高円寺」を発刊。
そして、30周年を記念して「高円寺ばか踊り」の第1期生が久しぶりの踊りを披露した。
そしてこの年、徳島県阿波踊り協会の連長会の豪華競演があった。
14連・37名が高円寺30周年を祝って上京し、友情出演をしてくれた。
いずれも有名連の連長ばかり、徳島でも最高峰の踊り手たち。
女性連長もおいでになり、めったに見ることのできない日本一の名人芸の競演に高円寺じゅうが酔いしれた。
その後も、各国、各地への出演を重ねている。