きっかけは青年部の誕生から
昭和32年8月。現在の高円寺パル商店街振興組合に青年部が誕生した。この誕生の記念行事として何かやろうじゃないか、という意見が出た。すでに、隣町の阿佐ヶ谷では昭和29年より七夕祭りが始まっており、これは大きな売上をもたらす呼び物であった。
「阿佐谷に負けてなるものか!」と高円寺の街の人々は奮起。相談のうえ、阿波踊りを始めることになった。行事やイベントの情報が少なかった当時のこと、神輿を担ぐ、盆踊りを踊るといったアイデアしか出てこない。しかし神輿は高価でとても手が出ない、狭い商店街の中では盆踊りのヤグラを組むこともできない。一同が頭を抱えていると、「私は見たこともないのだけれど、四国の徳島というところには、道を踊りながら進む踊りが有るらしいよ」と、この一言がきっかけとなり阿波踊りを始めることになった。 がしかし、名称は正式に阿波おどりと名乗るのも憚られ「高円寺ばか踊り」に決まった。
ところが阿波踊りの経験者がいるわけでもなく、民謡の先生に教わったそうだ。 本番のおはやしもチンドン屋に頼み、演奏されたのは「佐渡おけさ」のリズム。しかし、知らぬが仏でこれが阿波踊りのようなものと信じていた。
そして、高円寺駅から宝橋までの約250メートルを踊るというより走り抜けたのだそうだ。こうして第1回目の阿波踊りが平和に(?)終了。第1歩を踏み出したのである。
第1回の観客は2千人。第2回の観客は5千人。
しかし、地元の観客ばかりで売上増をねらう行事としては意味がないとのことから、早くも存続の危機が訪れる。
昭和34年、「準備に手間がかかりすぎる」、「踊りが始まると店の前に人垣が出来て商売にならない」という意見が噴出し、青年部における無記名の投票により、中止か継続かを決定することとなる。結果は「10対9」。
1票の差で継続が決定した。
こうして、存続の危機を乗り越えたのもつかの間、昭和35年には、警察から「1商業活動のために天下の公道をふさぐことは出来ない」との理由でまたもや存続の危機に直面。 役員総出で日参した結果、開催日直前になり1日だけ通行止めの許可がおりたのであった。
本場徳島との接点
いつまでも「高円寺ばか踊り」ではいけないと、メンバーが阿波踊りの師匠を探し始めたのもこの頃である。
そして昭和36年、徳島新聞社を通じて、徳島県人会で結成された「木場連」と巡り会った。
当時連長であった鴨川長二氏に阿波踊りの手ほどきしていただくことになったのだ。
鴨川氏はこと、踊りに関しては厳しい師匠であった。時には一生懸命のあまり、バチで弟子の手を叩くことさえあったという。
この甲斐あって、高円寺のメンバーのテクニックも急速に向上していったのである。
そして、昭和38年正式に「高円寺阿波おどり」に名称を変更したのである。